備忘録。

自分の思った事を連ねていきます。不定期更新。

ボスニア・ヘルツェゴビナ旅行記

ボスニア・ヘルツェゴビナはいつか訪れてみたい国の一つだった。

 

ボスニア・ヘルツェゴビナの歴史は「ややこしい」の一言に尽きる。

ボスニア・ヘルツェゴビナはその前はユーゴスラビアと言う一つの国であった。

が、そのユーゴスラビアが分裂し、ボスニアとなった歴史がある。

 

当時のユーゴスラビアは「7つの隣国・6つの共和国・5つの民族・4つの言語・3つの宗教・2つの文字により更生される1つの国」と評される国だった。つまりそれだけ火種の要素を抱えていたのだった。

 

ブラジルに最多得点で勝った強豪、ユーゴスラビアのサッカー監督であるイビチャ=オシムは辞任会見の祭に、ユーゴスラビアの監督を辞任する事にしました。理由は皆さん、ご存知の通りだ」と言う言葉を残している。この言葉は民族主義の対立を嫌っていたオシムの言葉で、ユーゴが故郷であるサラエボを襲うと言う理不尽さも含まれている言葉だとも言える。

 

その辺の経緯に関しては、かなり分かりやすくまとめてくれていたサイトがあったのでそちらに丸投げする事にする。

http://gotanda.cocolog-nifty.com/so_what/2007/11/post_6490.html

 

1992年から続いた戦争はヨーロッパでも最悪の紛争と言われた。

事態が泥沼化して、血で血を洗う紛争になった事でも知られる。

また、第一次世界大戦のきっかけが起こったのもここボスニアだった。

そういった意味では歴史の転機になるような出来事に数多く巻き込まれて来た国とも言える。

 

と言う訳で、そんな歴史が数多くある、旧ユーゴ諸国を巡り、ボスニア・ヘルツェゴビナに行って来た。

 

実はこの前にコソボと言う国に行っていた。コソボセルビア間は国境を越えるのは出来れば自粛するべきだと言う外務省からの勧告が出ていた。

よってマケドニア経由で(これはこれで出会いが逢って良かったのだが、また別に記述する)セルビアに行き、ボスニア・ヘルツェゴビナに入る事にした。

 

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<さらばセルビア。ようこそ、ボスニア・ヘルツェゴビナへ>

 

パスポートを渡すと、「そこのチーノ(中国人及びアジア人に対する蔑称)、パスポート」と言われてパスポートを返された。少しイラついた。ボスニアがこんな国じゃないといいなあ、と思いながらボスニアに入る。
隣の人とは色々と話がはずんだので良かったのだが。

 

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<前は見えない。真っ白な霧の中、バスは猛スピードでぶっ飛ばして行く。本当に見えているのかすら分からん>

 

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ボスニアに入ってからこういったショップを見かける事が増えた。山間部ではトラウトが有名なのだろうか>

 

夜にサラエボ市街地についた。ありがとうと言ってホテルを探し歩く。

安宿を見つけたのでそこに宿泊する事にした。ユーロ払いをする。1泊8ユーロ。中々のボロ宿だったが、シャワーがついているだけでも御の字だな、と思った。

サラエボ市街地は道路を挟んでキリスト教イスラム教との建築物の違いが見て取れて面白かった。

道行く人に、あの跡は何なのですか、と聴くと、全て92~95年の銃弾の跡だ、と言われる。

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路面電車

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<旧市街。こういった所を歩くのは楽しい>

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<霧の中に浮かび上がるモスク。中々の異国情緒である。>

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<戦争で打ち込まれた銃痕との事>

電車に乗る前にどうしても行っておきたかった場所があったのでそこに行く事にした。

この橋である。

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<一見すると普通の橋にしか見えないのだが…>

 

1914年6月28日。

オーストリアのフランツ大公が、ここで殺害された。

サラエボ事件である。そして、それをきっかけに第一次世界大戦が始まった。
こんな橋から教科書で習った戦争が始まるとは、俺にはどうにも信じ難い事だった。

 

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<市街地を少し歩いて行く>

少し街を離れて歩いて行くと、黄色い建物が見える区画に行き当たった。

ホリデイ・イン・ホテルだ。

世界でも有名なホテルの一つだが、ここサラエボのホリデイ・インはボスニア内戦の際に片方がぶっ壊れたまま営業していた事で知られている。

更に、このホリデイ・インの前の道路はスナイパーストリートと呼ばれた。

サラエボは山に囲まれた地形である事から、どこからでもこのホリデイ・インが狙えたそうだ。そして、そのストリートも。ストリートを通過する時は立ち止まると即射殺されたらしい。そういう場所だったそうである。

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サラエボ・ホリデイ・イン>

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<スナイパーストリート。戦争中はここで立ち止まるだけで容赦なく射殺されたのだそうだ>

サラエボでは冬季オリンピックが行われた事でも知られている。

だが、そのオリンピックスタジアムが戦争で無情にも墓地に変わった事はあまり知られていない。

あまりの犠牲者の数に墓場が無くなり、スタジアムを掘り返して墓地にしたのだ。

 

街中にあった犠牲者の碑は何だか無情さを示していた。1992-1992と言う生年月日と没年があったりした。6歳以下で亡くなった子供も多かったそうである。

 

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<銃痕>

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<0歳で亡くなった子供が居た。親になった今ではその事実が凄く重い物としてのしかかって来る。92〜95年に内戦は行われていた。>

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サラエボオリンピックスタジアム跡地>

 

サラエボを去り、モスタルへと行く事にした。先を急ぐ旅行ではなかったが、サラエボは1日滞在しただけでいいか、となった。

モスタルはエキゾチックな雰囲気を持つ、ボスニアの小さな街だ。

そして、イスラムカトリック教徒が共に暮らしていた。

 

だが、そのモスタルの旧市街や橋は戦争で破壊された。

今では平和の橋として再建されていて、橋の袂には"Don't forget '93"の文字も刻まれていた。

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モスタルの旧市街。大変に素敵な場所の一つなのだが・・・>

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<遠くに見えるあの橋も、戦争の時には陥落した>

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<ぼろぼろに破壊された建物。戦争によるものだそうだ。街のあちらこちらにこういった建築を見る事が出来る。新しいお墓も…>


悲しい想い出が詰まった場所を沢山見る旅だった。

だが、それ以上に沢山の笑顔にも出逢えた。これから前を向いて生きて行こうとしている人達の笑顔にも出逢えた。

そういった意味では凄く行って良かった国、そして旅だったと今でも考えている。

 

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<置物ではない。仲良しわんこ2匹組>

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モスタルで食べたご飯。またじゃがいもか・・・!>

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<さらばボスニア。一路クロアチアへ>

 

東欧全体に言える事ではあるのだが、治安がかなり悪い。
置き引き・スリ等に注意が必要である事。

それから、言葉がかなり多いので、その辺りも通じない事が多々ある。

今回行ったボスニア公用語ボスニア語・クロアチア語セルビア語。

英語が通じれば何とかなるのは都市のみで、田舎は通じない印象を受けた。

セルビア語に至ってはそもそも文字が読めない系統の言葉^^;

 

ボスニア・ヘルツェゴビナに入るには日本からだと第三国を経由、サラエボに入るルート。

セルビアの首都ベオグラードからバスにて入るルート。

クロアチアのドゥブロクニク経由でバスで入るルートなどがある。

鉄道は割と当てにならない。

 

通貨は兌換マルク/首都はサラエボである。
ただ、ユーロが通じる所も多い。カード払いは物価の安さもあったのでした記憶が無い。

日本に於いてボスニア出身の最も有名な人物はイビチャ=オシムさん。

ちなみに東欧のサッカースタジアムは割とな確率で暴動が起こるそうで(政治的意図も絡んで)あまり宜しく無いとの事。